玉木氏論文への反論2013/01/21 13:36

 フェイスブックで、私の“友達”や“友達の友達”がスポーツ評論家の玉木正之氏がニュースサイト「News Log」に書いた「くたばれ箱根駅伝! 大学スポーツ否定論」を取り上げ、その内容について賛同を示していた。
 玉木氏の評論やエッセイには独自のものがあり、日頃から注目している。しかも、表題が私の好きな“箱根駅伝”の前にセンセーショナルに“くたばれ”を付けているので興味を持ち、早速、一読した。ザッと読んだのだが色々な事を述べており趣旨が掴めなかった。おまけに「ちょっと違うな!」、という所が多かったので再読した。やはりおかしな論理を振りかざしている。

 結論から言うと、彼の従来からの持論である「スポーツの担い手を地域社会に根ざしたスポーツクラブへと移行することを望む」、という事を言いたいがために、色々な事柄を取り上げ、批判し、結論に導こうとしたらしい。しかし、その様に多くの事柄を取り上げたために言いたいことが曖昧になってきてしまっており、牽強付会の面もぬぐえない。

 玉木氏が業界に登場した時には、今までにない語り口と視点で非常にフレッシュな印象を持った。しかも、反権威的でもあったのだが、今回の評論を見ると、今や彼もold-fashioned commentatorとなり、ある種、権威者になってしまった様な気がする。

 私は、常々、権威者は発言に気をつけるべきであると思っている。気軽に発言をしても、世の中に対する反響が大きいからだ。中にはその事を意識して発言する権威者も居る。もし、玉木氏もそのような権威者になってしまっていたとしたら悲しむべき事である。権威者は常に世の中の動きを意識し、新しい知識を吸収し、時代錯誤にならない事を望む。

 

 以下、玉木氏の論への私の反論を記す(赤字が玉木氏の論、青字が私の反論)
箱根駅伝は誰もが分け隔てなく参加できるという「スポーツの基本原則」から外れた催し
 それについて、関西大学の……『東京のメディアがスペクタクルなイベントとして大学スポーツを過剰に演出し、ビジネスとしていることについては疑問もある。……全国の高校生が関東の大学を目指すことになり、メディアでそれが喧伝されるほど、 他の地方の陸上部は悔しさを募らせ、お正月の不快指数は高まる。……』

 スポーツがメディアに利用される事については問題もあるかも知れないが、それにより競技の注目度も上がるのでメリットもある。また、(首都圏に)優秀な選手が集中するのは相互に影響し合って、レベルアップが図れるという効果があるのではないか?
 
そもそも誰もが分け隔てなく参加できるという「スポーツの基本原則」なものが存在するのか?スポーツの大会は帰属している国や団体ごとに開催されるのであって、無原則的に誰でも参加できるというのは実行面から考えてもおかしな原則である。

 

大学間競争の激化の中で、スポーツ選手が東京圏に集中する傾向があり、それが人々の東京志向と地域間の序列意識の強化、そして政治・経済・文化の集中化が再生産される
 箱根駅伝が全国放送されたから東京集中化が起こったのではなく、政治・経済・文化の東京集中化が既に起こっているので、箱根駅伝が全国放送になったのではないか?
 地方競技なのに全国放送する事に関しては私の知人も怒っていたが、面白くなければ見なければ良いと思う。しかし、郷土出身の選手が走っていれば興味も湧くだろうし、地方にも出場校の卒業生が一杯いるので見たいという需要もかなりあるのではないか。
昔はNHKが関東地区でしかラジオ放送していなかった。私などは中大が全盛で、日大と1位、2位を争っていた小学生時代(昭和30年代前半)から興味があり、聞いていたものである。
この件は、地方大学のややひがみが入った話に思えるのは私だけだろうか?

 

母校の栄誉のために、必死になって…学生ランナーの身体を痛めるだけで長距離ランナーの成長と育成にはマイナスで しかない、という人も多い
 健康に影響があるなら止めれば良いと思うが、長い歴史の中でそんな話は聞いたことがない。日本男子長距離界の実力低下は必ずしも箱根駅伝の所為ではないと思う(瀬古俊彦氏もその論は否定している)。戦後、オリンピックに出た選手は大学出身者ばかりではない。この事を取っても箱根駅伝の影響ではない事が直ぐに分かるだろう。つまり、高卒で実業団に入った選手のレベルも下がっていると言うことだ。マラソンについて言えば男子のみならず女子のレベルも下がっている。

その原因のひとつはアフリカ勢の台頭である。持って生まれた能力が彼らと違う。スタミナ面では工夫もあろうが、スピードは如何ともし難い。育成面での工夫が必要なのは確かである。トラックの中長距離や駅伝から競技に入り、マラソンに転向する旧来のスタイルを変える必要があるのではないか?最初からマラソン選手として育成すべきだろう。しかし、42.195Kmという長さをいきなり体験するのは難しいので、ハーフマラソンやクロスカントリーから入るのが良いのではないか。そのためには、「箱根駅伝」は絶好の機会である。「出雲全日本大学選抜駅伝」や伊勢で行われる「全日本大学駅伝対校選手権大会」の様な中途半端な距離を走らせる事は、将来のマラソン選手となる選手の育成には疑問符が付く。

 

大学生のスポーツを、これほどまで全国的にマスメディアが騒いでいいものだろうか?
 故・宿沢広朗氏に、生前「ケンブリッジ大学対オックスフォード大学の試合は、イギリスではどの ように騒がれているのでしょう?」と訊ねたことがある。答えは、「ケンブリッジとオックスフォードの学生と卒業生が騒ぐ大会です」というものだった。

どうして日本人は直ぐに外国の話を持ち出し、比較するのだろうか?明治時代以降の外国信仰は未だ続いている。

 

レベルが高いトップ・リーグの闘いよりも大学ラグビーの勝敗ばかりを騒ぐような日本のマスメ ディアのあり方は、ラグビー名門大学OBによるメディア・ジャックとも言える行為

トップ・リーグが騒がれないのは関係者の宣伝が足りないのと、試合が今ひとつ大学の試合に比べて面白くないからであろう。レベルが高いから人々は注目するわけではない。バレーボールなどは男子の方がレベルが高いのに女子が注目される。卓球だってそうである。フィギュアスケートもそうだ。
野球だってプロ野球より高校野球の全国大会を見る人の方が多いだろう。
私はそれが良いとは思わない。強く美しいスポーツの選手や試合を好むが、面白い試合を好む人がいるのも事実なのだから、それで良いのではないか。ビジネスとして成立する事に企業がお金をかけるのは資本主義の世界では致し方ないだろう。

 

先に述べた日本の陸上長距離界やラグビーなどの場合は、大学の試合(箱根駅伝や大学ラグビー対抗戦&リーグ戦)を中心に国内の闘いばかりが注 目され続け、その結果、それらのスポーツの健全な発展が妨げられてきた

この指摘は正しいだろう。それはそういう状態を許し続けたわれわれにも責任があるだろう。

 

東京六大学野球は「世界 選手権」よりも「天皇杯」を優先させるような固陋な組織だ

天皇杯がある事が問題なのか?そうではないだろう、日本代表としての国際試合よりも特定の国内の試合を尊重する考えに問題があるのだろう。しかし、ちょっと例は違うがサッカーの場合、国際マッチよりも国内リーグを優先して選手を出さない、あるいは選手が出ないという事も多々ある。敢えて目くじらたてて得意気に昔の話を持ち出す必要もないのではないか?水が高い方から低い方に流れるように、長い歴史の中で必然的に良い方に変わっていくのだから。もし、変わっていかないならば、それが必ずしも正当な考えとは言えないかも知れない。

 

大学は、第一義的にスポーツを行う場所ではないのだ。大学にとっての第一義的価値とは、当然、学問であり、学術研究で あり、教育である

ここで学問、学術研究、教育と言っているのは何を指しているのか?音楽や運動は対象にならないのか?そんな事を言うのは時代錯誤ではないか?

 

学校スポーツや企業スポーツが、日本のスポーツ界を代表したり牽引したりするまでの実力や人気を得るようになったり、また、そのような実力や 人気を目指すことは、構造的に間違っている

それではどの様に選手を育成するというのか?クラブチームなら良いのか?そのような土壌がない現時点でそれを要求するのは選手を育成しなくても良いと行っているに過ぎない。

 

日本のプロ野球は、所詮は親会社のために存在する企業野球だから、アメリカ・メジャーのベースボール・ビジネスのやり方(マーケティン グ)に太刀打ちできない

日米のプロ野球のビジネスを比較しても、ビジネスをしている土俵が違うのだからしょうがない。確かにアメリカのプロ野球に日本の優秀な選手が取られるのは悔しいが、ビジネスの規模が違い、年俸が違うのだからしょうがない。しかし、グローバルなビジネスになっているサッカーの場合ならうなずける。でもJリーグにたいする企業の影響力は小さくなってきているので、良い傾向ではないか?が、しかしサッカーでも優秀な選手は海外に流出している。つまり、日本のスポーツの構造が間違っているという論理には誤りがあるという事だ。
また、野球のメジャーリーグや海外のメジャーサッカーリーグではオーナーがくるくる変わる。ビジネスにならないと判断すればチームを売りに出してしまうからだ。大体、ボールを打ち、守るだけで1年間に20億円以上も貰えるなどというのはおかしい。そんなチームを経営するオーナーは大金持ちであり、貧富の差を示す代表みたいなものだ。冒頭問題にした地域間格差などよりこちらの方が余程問題だろう。

 

スポーツとは本来「実力」(体力と技術)のみで評価される世界

スポーツにも素晴らしい教育的側面(個人の向上心を養ったり、チームプレイとして共助の精神を養うことなど)があることは事実だが、……長幼の序をはじ めとする「社会的価値観」を持ち込んだ。……先輩の 命令には絶対服従、上意下達の「体育会系運動部」という少々奇矯な社会が生み出されることになった。

長幼の序は一般社会にもあったのであり、スポーツの世界だけにあったものではない。この「社会的価値観」は、私は今でも重要と思うが、スポーツの世界ではそれが必要以上に強調され、そして今まで来ているという事ではないか?

 

中田英寿というサッカー選手が日本代表チームに加わったとき、練習や試合のサッカーのフィールドのなかで、先輩選手を呼び捨てにした(「△△ さん」と「さん付」にしなかった)ことが話題になった

中田が先輩を「さん付け」しなかった事が本当に良いのだろうか?実力に関わらず人間として先輩は尊敬するものであるから、「さん付け」する事が望ましいのではないか?しかも彼は実力主義を笠に着てそのように行動したとは言えないだろうか?私にはドイツのWカップの時の試合で彼がチームプレーに徹せず、自分の好きな様にやっていて呂比須などにパスを出さなかったというシーンが思い浮かぶ。

 

 

最後に次の様に書いている。
以上述べたことはすべて、欧米では主流の地域社会のスポーツクラブ(スポーツを第一義的価値に据えたクラブ組織)が、日本ではまったく未発達だった ために生じた矛盾といえる。従って将来は、日本社会も、スポーツの担い手が大学や企業から地域社会に根ざしたスポーツクラブへと移行することが望まれる (実際、日本の水泳、体操、サッカーなどは、そのようなクラブの発展で、競技としての実力も伸ばしつつある)。
(中略)大学は大学の本分、学生は学生の本分に立脚し、スポーツを利用して大学の人気を獲得したり、受験生集めに利用するのではなく、スポーツに関する学術的研究等でスポーツ界全体の発展に尽力すべきでだろう。
そういうスポーツという文化にとって真っ当な姿勢に立つなら、「非スポーツ的」「反スポーツ的」としか言えない「体育会系運動部」や、一部の大学だ けが中心となって行われている「似而非スポーツ大会」などは、早晩解体して、よりスポーツ的な組織に再編されるべきである……などと書くと、「スポーツ名 門大学」出身者の方々からは、大学をまともに卒業できず、母校と呼べる大学を持たない男のただの戯れ言と言われるだけでしょうか?

 
 これが彼が本来言いたかった事であるが、何故、最後に「…戯れ言…」と書いているのだろうか?
 箱根駅伝や大学スポーツに対する批判は、本当にスポーツクラブを推進するために必要な事なのだろうか、大いに疑問がある。